アントニオーニ晩年の長編『愛のめぐりあい』*1の主人公の名もない映画監督は「映像を通してリアリティの背後にあるものを探求してきた」と告白しているが、その“映像による見えないものの提示”は、同時に彼自身の(特に1959年制作『情事』以降の)作品における強い動機と不変のテーマと言える。
その見えないものについて、ほぼ同時代のフランスの哲学者(現象学)モーリス・メルロ=ポンティ*2は人間の知覚する対象について以下のように述べている。
見えないものとは、
一、今のところ見えないが、見えることのありうるもの。(物の隠れた面ないし今は見えていない面ーかくれているもの、「どこかべつのところ」のあるもの)。
二、見えるものと関わりはあるが、にもかかわらず物としては見られえないもの(その具象化されえぬ骨組)。
三、触角的ないし運動感覚的にしか存在しないもの。
いっぽう、見えるものについては、
見えるものとは客観的な現前(あるいはこの現前の観念=視覚的画像)であると信ずるようなまったくの哲学的誤謬(ごびゅう)の分析から出発すること。
モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』
滝浦静雄/木本元(共訳)
ポンティは客観的な表象(英:Representation 現前の観念=視覚的画像)とその裏側にあるものの対比により「ここ」や「どこかべつのところ」という場所の概念の喪失が触角的ないし運動感覚的に知覚され現前するものの誤謬、つまに、過ちや、誤解、偽りに気づく時に人間の意識の中にその“もの”が可視性をおびてくると述べているが、アントニオーニの視覚的画像においては可視しうる現実の背後に存在する実体の意味が探究しつづけられてきた。ちなみに『愛のめぐりあい』主人公の映画監督は「ただ映像に心惹かれるだけの人間にすぎない。今までずっとカメラを通して真実を発見してきた。周囲の世界を撮影しその表面を拡大して背後に潜むものを探求する。それを一生の仕事にしてきた。」と語る。アントニオーニの具体的なポンティの哲学に関する言及は残されていないが、彼も、ポンティの言う現前する事物や出来事の誤謬を捉え、見えないものを見えるものに転換、露出させようとしたのだろうか。
実際、私たち自身も、ものやことに対し一種絶対的な基準のように、”見える”、”見えない”という言葉をよく使う。それでは、アントニオーニが捉えようとした不可視の現実とはいったいどのようなものであり、どんな手法によりそれがフレームに転換されたのだろう。次回からは『欲望』(1966年)を始めとするいくつかの作品から具体的に検証して行きたい。