星屑の片隅で

星屑の片隅で

2023.08.09

ポレポレ東中野で香港映画『星屑の片隅で』 The Narrow Road。現代の香港を垣間見ることとは別にしても響いた。

Hong Kong film The Narrow Road at the Cinema, Pole Pole Higashi-Nakano. Apart from being a glimpse of the current situation in Hong Kong, the film resonated with me.

内力と外力

内力と外力

2021.01.29

年始の番組での坂本龍一のお薦めで予備知識なしに見た、考えさせてくれる巣ごもり支援ドラマ『マイ(ディア)ミスター』2018。境遇の違う悩める構造建築家と辛い過去をもつ女性が半目しながらも、やがてわかり合う(”コモン”を生み出す)プロセスを丁寧に描く。ソウル市後渓(フゲ)地区(たぶん行ったことない)の夜景がいい。「建物には内力と外力が作用する。それは人間関係も同じだ」

内と内

内と内

2020.10.24

50年後の太陽の塔は今どうなっているか。
塔を見て胎内に入り、再び塔を見る。
塔「未来」から入り胎内「人新世」へ時間軸上、表と裏を逆さまにめぐる。
外側には内側がある。
スロヴェニアの哲学者ジジェクが「(パンデミックにより)物理的距離を広げざるを得ない今、内と内(心と心)で見つめあう時」のようなことを言っていたのを思い出す。

はりぼての幻想

はりぼての幻想

2020.08.29

富山県市議会の不正追及のプロセスを、地元テレビ局のキャスター兼記者と報道記者だった2人が監督としてまとめあげたドキュメンタリー映画。
一方的に市議会議員の汚職を追及、断罪するのではなく、カメラを取材者の斜め後方にし、映画の視聴者をこの両者を静観する視点に置く設定。いわゆるワイズマン・スタイル*1ではない。そもそも、市議会で起きた政務活動費の不正使用に端を発し、一部の行政職員までをも巻き込んだ一連のスキャンダルを、取材側も含めた一種の人間模様として捉えていく。カメラは、人物たちの日常までも捉え、当事者たちがどういう形で囚われていったのかに迫ろうとするのだが、作中でも指摘する通り、一見すると当事者の言論には、あたりまえ、自然な流れのように、不思議な説得力があり、それに人々が囚われ、これが自然なんだ、という謎めいた共有感に飲み込まれそうになる。
ここでは、公的な「不正」が、些細な「個人の欲望」の集合に始まり、それが、やがて「慣れ合い」の感覚で「忖度」や流れを変えないための「隠蔽」の空気が蔓延し日常化する吉本隆明的な”共同幻想*2”がそこに生まれる。しかし、やがてそれは市民との大きな「断層」や「乖離」となるが、もう可視化できない幻想へと進化しているのだ。
上映劇場では、「爆笑」「失笑」「苦笑」が聞こえた。そう、つまり、この幻想は、地方だからではなく、多かれ少なかれ日本のどこにでも起こりうる”ほりぼて”の現象なのだ。その核心は闇の奥深いところにあり、それがいったい何なのかを観るものに問いかける。追及者の2人が、現場を離れ、それを若い女性記者が受け継ぐところで終わる。

『はりぼて』(2020)
監督五百旗頭幸男、砂沢智史
制作チューリップテレビ

*1アメリカのドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマン(1930-)による、ナレーションなしの対象者(物)映像集積のみの構成。
*2正常な心の動きからは理解を絶するような、わたしたちを渦中に巻き込んでゆくものの大きな部分を占める人間の共同の幻想について書いたもの。1968年初版。

ウイズコロナでの読書録:

ウイズコロナでの読書録:

2020.07.12

『アンダーカレント』豊田徹也(2005)
ビル・エヴァンス同曲を聴きながら、言語化不可能な日常物語。目に見えない”繋がり”が、気づかなければそのまま離れていってしまう寂寥。

 

『資本主義リアリズム』マーク・フィッシャーCapitalist Realism Is there no alternative? Mark Fisher(2009/2018)
鋭い現代思想・経済・映画・ロックのクロスジャンル論考。

 

『監獄の誕生』ミシェル・フーコーSurveiller et punir, Naissance de la prison (Discipline and Punish: The Birth of the Prison) Michel Foucault(1977/2020)
コロナ状況下で腑に落ちる部分多数ある。 「この完全な<矯正施設>監獄は、矯正という補足的役割を委託された<法律上の拘禁>であった。そこに集めた悪人をもとにして同質的で連帯的な集団を形づくってはならないわけである。」孤立化<ソリチュード>から連帯感<ソリダリティ>へ・・・どこかの国のようで皮肉だ。

 

『デヴィッド・シルヴィアン』クリストファー・ヤングOn the Periphery: David Sylvian – A Biography Christopher Young
エレクトロニカ界の吟遊詩人のバイオ。作品の裏に隠された実験や苦悩の数々がやがて繋がるプロセス。「醜い感情が美しい死を生むこともある」という心の淵ものぞかせた。

 

『MISSING』村上龍 (2020)
作家の過去の記憶の中で気になるずれ・瑕疵のような”失われたもの”の本質を探す内面の旅。映像が浮かぶこういう世界もいい。

 

『プログレッシブ・キャピタリズム』ジョセフ・E・スティグリッツPeople, Power and Profits Joseph E. Stigritz(2019/2020)
辛辣、博愛主義、ポジティブ。アメリカにとってはプログレッシブなのだが、欧州や日本も体制主導で、保険などの社会制度は進んでいる(手厚い、というべきか)。いかにアメリカの新自由主義が行き着くところまで行き着いたのかを考えさせられる。

 

『暗黒の啓蒙書』ニック・ランドThe Dark Enlightenment Nick Land (2012/2020)
スティーグリッツやフィッシャーと対極にいる英国の哲学者。BLACK LIVES MATTERを先取りするような議論、ゾンビ(社会・経済)終末論、オルタナ右翼など際どい(だから暗黒啓蒙的?)ところへも突き進む(でも刺激的な!)話。「民主主義のオルタナティブは存在するのか?しないのか?」と問いかける。ポスト・コロナで彼らの「(経済)加速主義」はどうなるのか

 

『ペスト』カミュLa Peste Camus(1947/1950)
発端は些細なことから。「こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

Hiroshima:

Hiroshima:

2019.08.06

もう一度8時15分が過ぎた現時点で広島は平和。自分自身が友や隣人への謙虚さや礼節、理解をいつも忘れないことを願いつつ、毎年同じ写真を提示している。
Relieved to realise Hiroshima is still in peace until now just after passing through another time of 08:15am…, hoping us never to forget understanding, humility and courtesy to our friends and neighbors, presenting the same photograph every year.

モントリオール:

モントリオール:

2019.01.25

カナダ・モントリオールのマギル大学建築学部で一週間、「シネマティック・アーキテクチャ」に関するレクチャーとワークショップを担当。招待してくれたイペック・テュレリ教授とも20年以上たって再び会えて感無量。ビッグムーンが印象的だったトロントからカナダ入りしたのだが、入国審査が面白かった。ビジネスでの入国ということで、少々変わったことやっているので管理官も「???」。懸命にカリキュラムなどの書類を見せつつの説明に、どうも要領を得ないような顔をしていた彼だったが、結局「カナダに教えてきてくれてありがとうございます笑」。-18 ℃で「観光」と言うほうが現実味がないだろう。

『日本の家 1945年以降の建築と暮らし』:

『日本の家 1945年以降の建築と暮らし』:

2017.10.24

一人で時間をかけ体系的に見る。日本の建築家たちが、これまで住に対し、どんな実験、挑戦をしてきたか。社会や、経済の変化に呼応するのは必然で、東孝光「塔の家」はポスト・オリンピック(ビートルズ来日)の1966年、黒川紀章「中銀カプセルタワー」は日本列島改造論の年(1972年)。和から洋へのライフスタイルの変化を敏感に読み取ったのも建築家で、それは、浜口ミホ(女性建築家第1号)の「(主人たちだけのものである)玄関や床の間を考え直そう」に重なり、それにハウジングメーカーや、集合住宅が追従。70年代から、日本の建築家たちも「社会の変化や住む(生きる)こと」に対するアンチテーゼを掲げたり一種のアナーキーな挑戦(これも必要だったわけで)を経て、現代では、肯定的に「(社会の)すき間」に入り込むような多様でヴァナキュラーな発想が新しい価値観を生み出している。

『アセンブル 共同体の幻想と未来』展:

『アセンブル 共同体の幻想と未来』展:

2016.12.25

去年の(美術界で最も有名といえる)英ターナー賞を建築家集団Assembleが受賞したというので是非見たかった展示。ようやくイブの日、(すごい!)人ごみかき分けつつ表参道へ。ここではアーチストの力を仮り、ボランティア・DIY・住民参加による「共同体」を組織化し「まちを再生」させる大工兼オルガナイザーが建築家。一種の社会的素人仕事の集積(assemble)つまりブリコラージュ。ただクオリティの高さがポイント。「建築家は社会的であれ」と昔習ったし、極めて英国的だな。ノルウェーのTYINもそうだし、こういう建築家がいてもいい。「これはまちづくり」と言うプランナーもいると思うが、そもそも境界引くのがナンセンスだ。そもそもアートが何に対するものなのか、何を意味するのか近年のターナー賞は問いかける。

パリ:

パリ:

2016.03.31

ラヴィレット建築大学でのMTG.。大学は世界どこも同じに見える。