自分の存在の意味、つまりアントニオーニ自身のアイデンティティはいかなるものだったのか。彼は1912年イタリア北部の小都市フェラーラで中産階級の子息として生まれた。幼少期より、建物や町のミニチュアを作り、その中にいる人々のことを想像することを楽しんだという。同時に絵を描くことや、ヴァイオリンにも親しんでいた。*1このことは、アントニオーニが、映画作家だけでなく、建築家、都市計画家としての視点、資質をも同時に育まれた培われた有していたことを物語る。フェラーラと建築といえば、イタリア・ルネサンス期に活躍し、古典研究はもとより、文学・絵画・彫刻・音楽・建築・スポーツ、あらゆる面に人並み優れる才能を発揮した「万能の天才」*2とされるアルベルティ(1404 – 1472)*3があげられる。彼による『建築論』(1485)は、後世の建築理論書の出現に貢献し、建築について論じるという文学的な結びつきを確立した第一人者と言える。彼、アルベルティは、フェラーラ大聖堂(ドゥオーモ)の鐘楼の設計に関与したと言われている。アントニオーニが故郷フェラーラを舞台に制作した作品は晩年の代表作『愛のめぐりあい』(1995)*4のみであるが、そこにはフェラーラ(サン・ジョルジョ)大聖堂が描かれている。同じ町で3年前に出会った男女が再会し、慎ましくも惹かれ合う二人の変わらぬ心の結びつきを、その大聖堂のファサードが時を経て、二人の関係が心の中でさらなる広がりと奥深さを増したことを表している。アルベルティの時代の15世紀フェッラーラという町について、アメリカの歴史学者で『アルベルティ イタリア・ルネサンスの構築者』(2000)を著したアンソニー・グラフトンの言葉を借りるなら、それは、「航行可能なポー河の支流にあって、ヴェネツィアとボローニャの間という便利な場所に位置し、フィレンツェよりはるかに小さく、住民はおそらく三万人を超えることはなかったし、製造業の中心となることもなかった。しかしフェッラーラ(フェラーラ)は、商人や大使たち、また北方から中部イタリアへとやってくる人々にとっての停留地として役立っていた。(アルベルティの活躍していた)1430年代末には、フェッラーラはますます活性化していた大学や豊かな個人蔵書、活発で魅力的な知的サークルを誇るようになっていた。」*5となる。このようにフェッラーラはもともと商工業というよりは閑静な文化的小都市との想像が可能だ。
アントニオーニが、アルベルティについて詳しく調べ、探求したかは本人の著述には現れられていないので定かではない。ただ、彼がフェラーラ大聖堂の映像を自分の作品の象徴的な部分に引用したことは、ごく自然に故郷にゆかりのある偉人の成し遂げた業績を知り得ていた以上の何らかの理由があると思われる。
また、アルベルティのいわゆるマルチタレント的な多才さを、前述のグラフトンは「近代の学術書における多面鏡には少なくとも二人のアルベルティが映っている。」*6と喩える。第一のアルベルティは、「不規則な事物に数学的秩序をもたらす神のごとき社会や空間の総指揮者の建築家として、専制的暗黒郷思想家モダニズムの建築家ル・コルビジェ*7やアメリカの都市計画家ロバート・モーゼス*8」で、また、第二のアルベルティは、「地方様式や建設環境を尊重する時代に育った、近年の新しい世代の学者の中に出現した。コンテクストの重視、場所や建築、都市の歴史との深い関わり、伝統の尊重する人物」で、さらに「近代都市を切り刻み、ずたずたにした都市計画者たちの祖先ではなく、欧米の都市遊歩者で、フランツ・ヘッセル*9や、都市評論家・思想家のジェイン・ジェイコブス*10のような都市空間の真摯な観察者」のように映る、としている。
このようないわゆる視点の二面性は、アントニオーニにとっても同様と言えるのかもしれない。さらに、「アルベルティほど、建築の問題を扱うための言語を鍛え上げ、それを豊富な理論と経験の上に基礎づけた者はいない。さらに建築家としての彼は、理論を実践に移し、十五世紀におけるもっとも独創的な私的および公的建築を創造した。」ことについては、「15世紀」を「現代」に、「建築」を「映画」に置き換えるならば、アントニオーニにもそのまま当て嵌まる。例えば、アルベルティが齢二十歳に書き下ろした戯曲『フィロドクススの物語』は、「美とその適切さ<デコールム>*11」という根底に潜むテーマの上層は、当時の腐敗した貴族社会や吝嗇な商人などのいわゆる特権階級(彼自身もこの階級に属していた)の人々に対する鋭い社会観察や皮肉や自虐などの批判精神で覆われている。建築や文学作品を通じて彼は自然に対する過剰で冒涜的な(発明や開発などによる)変化のエネルギーにより失われるものの尊さも説く、「心暖かい理想主義者」*12でもあった。
こんなアルベルティの建築を自分の晩年の代表作に取り上げたことは、もはやアントニオーニのアルベルティに対する畏敬の念からと言い切ってもいいだろう。アルベルティのように、彼アントニオーニにも共通する、独特の厳格なスタイル(映像美とそれが適切であるかどうかの)の探求や、真摯で冷徹な変わりゆく都市や社会批判を込めながらも、主人公たちを決して突き放すことのない優しさを感じさせる心暖かい理想主義者としての視点という二面性、つまりそれが彼のアイデンティティなのだ。