星屑の片隅で
ポレポレ東中野で香港映画『星屑の片隅で』 The Narrow Road。現代の香港を垣間見ることとは別にしても響いた。
Hong Kong film The Narrow Road at the Cinema, Pole Pole Higashi-Nakano. Apart from being a glimpse of the current situation in Hong Kong, the film resonated with me.
ポレポレ東中野で香港映画『星屑の片隅で』 The Narrow Road。現代の香港を垣間見ることとは別にしても響いた。
Hong Kong film The Narrow Road at the Cinema, Pole Pole Higashi-Nakano. Apart from being a glimpse of the current situation in Hong Kong, the film resonated with me.
年始の番組での坂本龍一のお薦めで予備知識なしに見た、考えさせてくれる巣ごもり支援ドラマ『マイ(ディア)ミスター』2018。境遇の違う悩める構造建築家と辛い過去をもつ女性が半目しながらも、やがてわかり合う(”コモン”を生み出す)プロセスを丁寧に描く。ソウル市後渓(フゲ)地区(たぶん行ったことない)の夜景がいい。「建物には内力と外力が作用する。それは人間関係も同じだ」
50年後の太陽の塔は今どうなっているか。
塔を見て胎内に入り、再び塔を見る。
塔「未来」から入り胎内「人新世」へ時間軸上、表と裏を逆さまにめぐる。
外側には内側がある。
スロヴェニアの哲学者ジジェクが「(パンデミックにより)物理的距離を広げざるを得ない今、内と内(心と心)で見つめあう時」のようなことを言っていたのを思い出す。
富山県市議会の不正追及のプロセスを、地元テレビ局のキャスター兼記者と報道記者だった2人が監督としてまとめあげたドキュメンタリー映画。
一方的に市議会議員の汚職を追及、断罪するのではなく、カメラを取材者の斜め後方にし、映画の視聴者をこの両者を静観する視点に置く設定。いわゆるワイズマン・スタイル*1ではない。そもそも、市議会で起きた政務活動費の不正使用に端を発し、一部の行政職員までをも巻き込んだ一連のスキャンダルを、取材側も含めた一種の人間模様として捉えていく。カメラは、人物たちの日常までも捉え、当事者たちがどういう形で囚われていったのかに迫ろうとするのだが、作中でも指摘する通り、一見すると当事者の言論には、あたりまえ、自然な流れのように、不思議な説得力があり、それに人々が囚われ、これが自然なんだ、という謎めいた共有感に飲み込まれそうになる。
ここでは、公的な「不正」が、些細な「個人の欲望」の集合に始まり、それが、やがて「慣れ合い」の感覚で「忖度」や流れを変えないための「隠蔽」の空気が蔓延し日常化する吉本隆明的な”共同幻想*2”がそこに生まれる。しかし、やがてそれは市民との大きな「断層」や「乖離」となるが、もう可視化できない幻想へと進化しているのだ。
上映劇場では、「爆笑」「失笑」「苦笑」が聞こえた。そう、つまり、この幻想は、地方だからではなく、多かれ少なかれ日本のどこにでも起こりうる”ほりぼて”の現象なのだ。その核心は闇の奥深いところにあり、それがいったい何なのかを観るものに問いかける。追及者の2人が、現場を離れ、それを若い女性記者が受け継ぐところで終わる。
『はりぼて』(2020)
監督五百旗頭幸男、砂沢智史
制作チューリップテレビ
*1アメリカのドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマン(1930-)による、ナレーションなしの対象者(物)映像集積のみの構成。
*2正常な心の動きからは理解を絶するような、わたしたちを渦中に巻き込んでゆくものの大きな部分を占める人間の共同の幻想について書いたもの。1968年初版。
ジェーン やめてちょうだい。その写真を返して。そんなふうに写真を撮るなんて許せないわ。
トーマス そんなこと誰が言ったんだ?僕はただ自分の仕事をしているだけさ。闘牛士や政治家と同じように僕は写真家だ。映画『欲望』(Blow-Up)1965年
アルゼンチンの作家フリオ・コルタザルの怪異幻想小説『悪魔の涎』*1に着想を得て制作された『欲望』*2は、原作のパリから映画化に際しロンドンに舞台が置き換えられた。主人公のトーマスは、都市とモードを撮る売れっ子写真家。彼は狩人のように当時の最新型ロールス・ロイスのオープン・カーに跨り獲物(写真の対象)を求め衝動的に都市ロンドンを駆け廻る。ここで提示される問題は彼の介在するオブジェクトと作品(写真)に対する意味づけだ。彼は、収容所のホームレスや荒廃した街の一角を背景に撮影された男の姿をカメラのフレームに切り取るという行為により都市の断面を「現実」として具現化しようとしている。彼は自分自身が知覚しうるもののみが現実であると信じ疑わない。
彼の思考はシャッターを切る以前に(シャッターを切る瞬間まで)肉眼で認識されたオブジェクト(対象)が直感によりもうすでに意味づけられ、叙述に結び付けられている。そしてその行為が現実の写し撮りだと確信している。同時に、貧困や荒廃した街と対峙するかのような対象的なモードや商業写真にも抵抗がない。多分、彼自身、感性が受け入れるものなら対象の価値にはこだわらないのだろう。骨董屋で買い込む飛行機のプロペラや、ライブハウスでオーディエンスが群がるロックバンドのギタリスト(ヤードバーズのジェフ・ベック)の叩き壊したギターのネックをいとも簡単に街中に捨て去るシークエンスは、芸術=モノの価値に疑問を投げかける一幕と言える。そう、トーマスは「もう、この街には飽き飽きした」と対象を消費して行くだけの虚しい行為に気づき始めてもいる。(ライブハウスから街中のシーンの動画)
特に、『欲望』におけるアントニオーニの都市表現は秀逸でフィンランドの建築家ユハニ・パルラスマ*3も自著においてアントニオーニの建築物(もちろん、都市空間も含む)への並々ならぬ関心を指摘しているように、映画の冒頭にアリソン&ピーター・スミッソン*4設計の上方に伸びる直方体の現代建築(1964年完成のエコノミスト・ビル)に仮装学生運動家ラグ・ウィークたちの姿を重ね合わせ象徴的に描いている。近代から現代に変貌しつつあるロンドンの建築や新しい色彩やデザインの溢れるスウィンギン・ロンドン*5と呼ばれる当時の風俗をサイケデリックな色合いも加え抽象的に再現したスタジオ撮影のシーンはまさに圧巻だ。
ある日、トーマスは、ロンドン市内の静かな公園(マリオン・パーク)で幸福そうな一組の男女の姿を偶然、写真に収める。しかし、女性が執拗にそのフィルムの返却を請うので、単なる逢瀬以上の切迫した何かを感じ取りその事に深い関心を抱くようになる。彼が公園で手に入れた写真は、最初の意図では単に貧苦にあえぐ都市と人間の写真集の結末に対象的に配置されるものだった。ところが、彼はすでに撮り終えた作品の一点の不明瞭な影に注目し、そこから憑かれたようにその意味の探求がはじまる。この時点まで写真家トーマスが追い求め、消費していたのは、いわば哲学者ジャン・ボードリヤール*6の言う「人が最も上手に写真を撮ることができるのは、未開人、貧民、モノなど、それらにとっては他者がもともと存在しないか、もしくは存在しなくなったものたち」*7のようなもので、この気づきが、彼に、これまでは現実の欠落した空虚なイメージを追い求め続けるだけであった「撮影」行為の時点で、すでに意味づけが完結していたのが、更にその先に潜む意味を探るという“欲望”を抱かせることとなるのだ。そして友人の抽象画家ビルの台詞がその先を暗示する。「意味のない寄せ集め、始めはぼんやりと不明瞭なものが、やがて形を成す。一部が見えきて、そして全体が。まるで推理小説のように・・・。」
次回は、その不明瞭で意味のないコラージュ(寄せ集め)から、核心に迫るために取ったトーマスの“手法”と“写真 “そのものの意味について考察する。
アントニオーニ晩年の長編『愛のめぐりあい』*1の主人公の名もない映画監督は「映像を通してリアリティの背後にあるものを探求してきた」と告白しているが、その“映像による見えないものの提示”は、同時に彼自身の(特に1959年制作『情事』以降の)作品における強い動機と不変のテーマと言える。
その見えないものについて、ほぼ同時代のフランスの哲学者(現象学)モーリス・メルロ=ポンティ*2は人間の知覚する対象について以下のように述べている。
見えないものとは、
一、今のところ見えないが、見えることのありうるもの。(物の隠れた面ないし今は見えていない面ーかくれているもの、「どこかべつのところ」のあるもの)。
二、見えるものと関わりはあるが、にもかかわらず物としては見られえないもの(その具象化されえぬ骨組)。
三、触角的ないし運動感覚的にしか存在しないもの。
いっぽう、見えるものについては、
見えるものとは客観的な現前(あるいはこの現前の観念=視覚的画像)であると信ずるようなまったくの哲学的誤謬(ごびゅう)の分析から出発すること。
モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』
滝浦静雄/木本元(共訳)
ポンティは客観的な表象(英:Representation 現前の観念=視覚的画像)とその裏側にあるものの対比により「ここ」や「どこかべつのところ」という場所の概念の喪失が触角的ないし運動感覚的に知覚され現前するものの誤謬、つまに、過ちや、誤解、偽りに気づく時に人間の意識の中にその“もの”が可視性をおびてくると述べているが、アントニオーニの視覚的画像においては可視しうる現実の背後に存在する実体の意味が探究しつづけられてきた。ちなみに『愛のめぐりあい』主人公の映画監督は「ただ映像に心惹かれるだけの人間にすぎない。今までずっとカメラを通して真実を発見してきた。周囲の世界を撮影しその表面を拡大して背後に潜むものを探求する。それを一生の仕事にしてきた。」と語る。アントニオーニの具体的なポンティの哲学に関する言及は残されていないが、彼も、ポンティの言う現前する事物や出来事の誤謬を捉え、見えないものを見えるものに転換、露出させようとしたのだろうか。
実際、私たち自身も、ものやことに対し一種絶対的な基準のように、”見える”、”見えない”という言葉をよく使う。それでは、アントニオーニが捉えようとした不可視の現実とはいったいどのようなものであり、どんな手法によりそれがフレームに転換されたのだろう。次回からは『欲望』(1966年)を始めとするいくつかの作品から具体的に検証して行きたい。
自分の存在の意味、つまりアントニオーニ自身のアイデンティティはいかなるものだったのか。彼は1912年イタリア北部の小都市フェラーラで中産階級の子息として生まれた。幼少期より、建物や町のミニチュアを作り、その中にいる人々のことを想像することを楽しんだという。同時に絵を描くことや、ヴァイオリンにも親しんでいた。*1このことは、アントニオーニが、映画作家だけでなく、建築家、都市計画家としての視点、資質をも同時に育まれた培われた有していたことを物語る。フェラーラと建築といえば、イタリア・ルネサンス期に活躍し、古典研究はもとより、文学・絵画・彫刻・音楽・建築・スポーツ、あらゆる面に人並み優れる才能を発揮した「万能の天才」*2とされるアルベルティ(1404 – 1472)*3があげられる。彼による『建築論』(1485)は、後世の建築理論書の出現に貢献し、建築について論じるという文学的な結びつきを確立した第一人者と言える。彼、アルベルティは、フェラーラ大聖堂(ドゥオーモ)の鐘楼の設計に関与したと言われている。アントニオーニが故郷フェラーラを舞台に制作した作品は晩年の代表作『愛のめぐりあい』(1995)*4のみであるが、そこにはフェラーラ(サン・ジョルジョ)大聖堂が描かれている。同じ町で3年前に出会った男女が再会し、慎ましくも惹かれ合う二人の変わらぬ心の結びつきを、その大聖堂のファサードが時を経て、二人の関係が心の中でさらなる広がりと奥深さを増したことを表している。アルベルティの時代の15世紀フェッラーラという町について、アメリカの歴史学者で『アルベルティ イタリア・ルネサンスの構築者』(2000)を著したアンソニー・グラフトンの言葉を借りるなら、それは、「航行可能なポー河の支流にあって、ヴェネツィアとボローニャの間という便利な場所に位置し、フィレンツェよりはるかに小さく、住民はおそらく三万人を超えることはなかったし、製造業の中心となることもなかった。しかしフェッラーラ(フェラーラ)は、商人や大使たち、また北方から中部イタリアへとやってくる人々にとっての停留地として役立っていた。(アルベルティの活躍していた)1430年代末には、フェッラーラはますます活性化していた大学や豊かな個人蔵書、活発で魅力的な知的サークルを誇るようになっていた。」*5となる。このようにフェッラーラはもともと商工業というよりは閑静な文化的小都市との想像が可能だ。
アントニオーニが、アルベルティについて詳しく調べ、探求したかは本人の著述には現れられていないので定かではない。ただ、彼がフェラーラ大聖堂の映像を自分の作品の象徴的な部分に引用したことは、ごく自然に故郷にゆかりのある偉人の成し遂げた業績を知り得ていた以上の何らかの理由があると思われる。
また、アルベルティのいわゆるマルチタレント的な多才さを、前述のグラフトンは「近代の学術書における多面鏡には少なくとも二人のアルベルティが映っている。」*6と喩える。第一のアルベルティは、「不規則な事物に数学的秩序をもたらす神のごとき社会や空間の総指揮者の建築家として、専制的暗黒郷思想家モダニズムの建築家ル・コルビジェ*7やアメリカの都市計画家ロバート・モーゼス*8」で、また、第二のアルベルティは、「地方様式や建設環境を尊重する時代に育った、近年の新しい世代の学者の中に出現した。コンテクストの重視、場所や建築、都市の歴史との深い関わり、伝統の尊重する人物」で、さらに「近代都市を切り刻み、ずたずたにした都市計画者たちの祖先ではなく、欧米の都市遊歩者で、フランツ・ヘッセル*9や、都市評論家・思想家のジェイン・ジェイコブス*10のような都市空間の真摯な観察者」のように映る、としている。
このようないわゆる視点の二面性は、アントニオーニにとっても同様と言えるのかもしれない。さらに、「アルベルティほど、建築の問題を扱うための言語を鍛え上げ、それを豊富な理論と経験の上に基礎づけた者はいない。さらに建築家としての彼は、理論を実践に移し、十五世紀におけるもっとも独創的な私的および公的建築を創造した。」ことについては、「15世紀」を「現代」に、「建築」を「映画」に置き換えるならば、アントニオーニにもそのまま当て嵌まる。例えば、アルベルティが齢二十歳に書き下ろした戯曲『フィロドクススの物語』は、「美とその適切さ<デコールム>*11」という根底に潜むテーマの上層は、当時の腐敗した貴族社会や吝嗇な商人などのいわゆる特権階級(彼自身もこの階級に属していた)の人々に対する鋭い社会観察や皮肉や自虐などの批判精神で覆われている。建築や文学作品を通じて彼は自然に対する過剰で冒涜的な(発明や開発などによる)変化のエネルギーにより失われるものの尊さも説く、「心暖かい理想主義者」*12でもあった。
こんなアルベルティの建築を自分の晩年の代表作に取り上げたことは、もはやアントニオーニのアルベルティに対する畏敬の念からと言い切ってもいいだろう。アルベルティのように、彼アントニオーニにも共通する、独特の厳格なスタイル(映像美とそれが適切であるかどうかの)の探求や、真摯で冷徹な変わりゆく都市や社会批判を込めながらも、主人公たちを決して突き放すことのない優しさを感じさせる心暖かい理想主義者としての視点という二面性、つまりそれが彼のアイデンティティなのだ。
彼の残してきた作品群から感じられるのは、アントニオーニ自身による解釈が加えられたイメージ=テキストの抽象性がその奥底に潜む矛盾とともに配置され反復され、繰り返され、そして位置付けられ、こまやかなずれが現れてくるというものであり、そういう仕組みが物語の潮流の自然(具象)をうみだすということだ。そして、言うまでもなく彼が独自の文体をもっているということは、映像作家としての彼にとってひとつの栄誉であるといえる。独自で個性的な文体、つまりは独自で個性的な彼の世界の把握、あるいは独自で個性的な作品世界について評論家たちは長い間、解釈を試みてきた。アントニオーニの残してきた作品群に関してスーザン・ソンタグ*1は以下のように類型化する。
少なくとも有効といえる区別は「分析的」な映像作品と「叙述的」かつ「説明的」な映画という分類であろう。第一の型の例はカルネ*2、ベルイマン*3(とくに『鏡の中にある如く』と『「冬の光』、それに『沈黙」』)、フェリーニ*4、それにヴィスコンティ*5である。第2の型の例は、アントニオーニ、ゴダール*6、そしてブレッソン*7と言えよう。第一の型は心理映画、つまり登場人物の動機を解明することにもっぱら関心を寄せている映画、と言うことができよう。第2の型は反心理的な映画で、感情と物間の相互作用を扱うものである。そこでは人物は不透明で「状況」にさらされている。
スーザン・ソンタグ『反解釈』*8
ソンタグの指摘するように、アントニオーニの求めたどのような対象と問題について描かれたイメージ=テキストにも、どんな長い物語の一部分からも、明確な動機、意味づけは現れることはない。登場人物にしても都市の中を揺らめくように生きる女たち、そしてクリエイティブな職業に携わり、一見すると憑かれたように対象を追い求める男たちにしても(『夜』(1961年)の作家、『情事』(1960年)の建築家、『さすらいの二人』(1975年)のドキュメンタリー作家、『欲望』の写真家、『ある女の存在証明』(1982年)、『愛のめぐりあい』(1995年)の映画監督)彼らを憑き動かす何かは明瞭な形あるものに憑かれるわけでもなく、またある種の目的(それは、場所も含む)に向けられているわけでもない。
ここで、わたしたちがただ一つ感じることのできるのは、現代社会におけるモラルと、その境界の片隅で、みずからのアイデンティティーを意識的にせよ、無意識的にせよ求めようとする登場人物の姿である。アントニオーニは『情事』を撮影した際、以下のように述べている。
今日、この世界には、きわめて重大な断絶が存在している。一方には科学があり、それは、未来に向かって身を挺し、その未来の一角ですら、征服できることになるものなら、昨日の自己を日々に否定するのに吝かではない。そして、他方には硬直し、固定したモラルがあり、人間はそれを十分意識しているのだが、それなのにモラルは存立し続けるのである。
雑誌『シネマ60 1960年10月号』*9 ミケランジェロ・アントニオーニ
ここで対峙するのは、科学とモラルである。絶対の本質である科学に対し、モラルとはいったい何か。実体のないモラルに対し、アントニオーニの登場人物たちは、探求を試みる。結局、モラルの向こう側にある何かを追い続けることが、次第に自分とは何か、自分の存在の意味の探求にすり変わって行く。
フランスの映画評論家のアンリ・アジェルはアントニオーニの初期の作品『愛と殺意』(1950年)について、「主題の内面的であると同時に社会的なリアリズムが、カットからカットへの動きによってではなく、シークエンスの内面の動きによって強調される」手法が採られており、映画の新たな構造を提示していた*1と指摘している。これは、カットの切り返し、いわゆるモンタージュよりもむしろシークエンスのなかの時の流れを重視する彼独特の手法がすでに初期段階で確立されていたことを示している。フランスの映画監督エリック・ロメール*2は、作品アプローチは違えど、アントニオーニの作品に対し、「人は映画(作家の作品)の独自性ということを論じる。しかし、そこで問題とされているのは、手段の独自性であって、目的の独自性ではない。例えば、『情事』(1960年)や『夜』(1961年)がきわめて偉大な映画作品であることは明らかであり、そこで手段のみを取り上げて、それらを文学的な作品と非難することはひどく馬鹿げている。」*3と単なる流し撮りではないアントニオーニ固有のアプローチへの賛辞を述べている。
彼の功績を讃えるだけでなく、彼の未来への見識眼の鋭さを示す例として、映画監督のヴィム・ヴェンダース*4は、短編ドキュメンタリー映画『666号室』(1982年)のためにアントニオーニにインタビューした時の彼の映画の未来に対するコメントに心を打たれたという。「映画が死の危険に瀕しているのは本当だ。(中略)高品位ビデオカセットの場により、やがて自宅に映画館を持てるようになるだろう。映画館はお役御免になる。いまある施設はすべていらなくなる。(中略)ただ、思うのは新しい技術によりよく適応できるような新しい人間に変わってゆくことは、私たちにとって、それほど難しいことではないだろう。」いまから30年以上も前に、すでに今日の映像を体験する状況が変わること、それに自分は適応することが重要であると述べている。彼はまた建築のたとえを使う。「建物だって、将来どんなものになるか、だれが知ろう。この窓から見えている建物が、明日はもう存在しないということもありうるのだ。」*5と。
本論は、映画作家ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni(1912-2007)を、建築家、あるいは都市計画家として捉え、そのうえで、都市や建築を見極め再構成するための新たな視点の発見を目指すものである。どうしてアントニオーニを建築家として読みかえるかというと、その理由は、彼の描く映像の背景に都市やそのエレメントが登場人物と深くかかわり合っていること、また、ローマのエウル(『太陽はひとりぼっち』)、ミラノ(『夜』)、ロンドン(『欲望』)、ロサンゼルス(『砂丘』)と、彼が一作ごとに場所(都市)を変えて登場人物の深層心理を投影させる(もちろん、その逆、つまり<都市空間が人物の内面に投影され心理に干渉すること>もある)ことへの興味でもあり、近年、学術的視点においても、たとえばハーヴァード大学教授で視覚環境研究を専門とするジュリアーナ・ブルーノ*1が、著書「Public Intimacy Architectue and Visual Arts」(2007)においても、「時間構成により独自の映像空間を築き上げた“建築的映画作家アントニオーニ”」と述べて引用していること*2をみても、また、2015年には、フランスのパリ・シネマティークでもアントニオーニ展*3が開催されたように、彼の映像は時を超えても、相変わらず高い評価が与えられているからである。
もちろん、すでに作り手を離れて機能し続けている映像作品を論ずることについては常に困難さがつきまとうであろう。映画それ自体がそれぞれのファンの心の中で生きている限り、作り手と観客の間には常に生の関係性が発生している。
しかし、映画評論家・粉川哲夫は、我が国においてトリフォー、ゴダール、ベルイマン、ワイダ、カサヴェテス、勅使河原宏らと共にアントニオーニの問題作を上映することが映画館の確信であると同時に新しい都市文化の形成をも象徴していた*4と述べており、これほどの影響を与えた作家について深い興味を覚えたのも本論に取り組むきっかけである。
本論では、建築家アントニオーニの視線を通して都市、場所、移動、言葉、時間、アイデンティティについて考察することで、アントニオーニのデザインする建築・都市空間の仮想を試みるが、一作家の残した様々な仕事を拾い集め再構成することで作家の実像をあぶり出す方式を取ることで全体像を出現させることを目指して行くつもりだ。