本論は、映画作家ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni(1912-2007)を、建築家、あるいは都市計画家として捉え、そのうえで、都市や建築を見極め再構成するための新たな視点の発見を目指すものである。どうしてアントニオーニを建築家として読みかえるかというと、その理由は、彼の描く映像の背景に都市やそのエレメントが登場人物と深くかかわり合っていること、また、ローマのエウル(『太陽はひとりぼっち』)、ミラノ(『夜』)、ロンドン(『欲望』)、ロサンゼルス(『砂丘』)と、彼が一作ごとに場所(都市)を変えて登場人物の深層心理を投影させる(もちろん、その逆、つまり<都市空間が人物の内面に投影され心理に干渉すること>もある)ことへの興味でもあり、近年、学術的視点においても、たとえばハーヴァード大学教授で視覚環境研究を専門とするジュリアーナ・ブルーノ*1が、著書「Public Intimacy Architectue and Visual Arts」(2007)においても、「時間構成により独自の映像空間を築き上げた“建築的映画作家アントニオーニ”」と述べて引用していること*2をみても、また、2015年には、フランスのパリ・シネマティークでもアントニオーニ展*3が開催されたように、彼の映像は時を超えても、相変わらず高い評価が与えられているからである。
もちろん、すでに作り手を離れて機能し続けている映像作品を論ずることについては常に困難さがつきまとうであろう。映画それ自体がそれぞれのファンの心の中で生きている限り、作り手と観客の間には常に生の関係性が発生している。
しかし、映画評論家・粉川哲夫は、我が国においてトリフォー、ゴダール、ベルイマン、ワイダ、カサヴェテス、勅使河原宏らと共にアントニオーニの問題作を上映することが映画館の確信であると同時に新しい都市文化の形成をも象徴していた*4と述べており、これほどの影響を与えた作家について深い興味を覚えたのも本論に取り組むきっかけである。
本論では、建築家アントニオーニの視線を通して都市、場所、移動、言葉、時間、アイデンティティについて考察することで、アントニオーニのデザインする建築・都市空間の仮想を試みるが、一作家の残した様々な仕事を拾い集め再構成することで作家の実像をあぶり出す方式を取ることで全体像を出現させることを目指して行くつもりだ。
アントニオーニ: 転換の視線
映画監督ミケランジェロ・アントニオーニの作品で描かれた都市や建築、人物たちを検証しつつ、彼の建築家的視点について論考するエッセイ。
発端・アイデンティティそしてアルベルティ
(1)
*1
ジュリアーナ・ブルーノ(Giuliana Bruno)
ハーヴァード大学教授。専門は、視覚芸術、映画、建築、マルチメディア。著者に『Surface: Matters of Aesthetics, Materiality, and Media』(2014)、『Public Intimacy: Architecture and the Visual Arts 』(2007)などがある。
*2
Giuliana Bruno『Public Intimacy Architectue and Visual Arts』
The MIT Press (March 16, 2007) P.200
*3
“ANTONIONI“
フランスの映画評論家ドミニク・パイニ(Dominique Paini)のキュレーションによる回顧展。開催期間は、2015年4月9日〜7月20日。会場は、フランス・シネマテーク(パリ)。
*4
粉川哲夫著『シネマポリティカ 粉川哲夫映画批評集成』
作品社(1993/12)P.455
本エッセイに元づくアントニオーニのドキュメンタリー映画作品『アントニオーニ:転換の視線』(15min)をvimeoにて公開中。(視聴はこちら または下記サムネールをクリック)