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2020.08.22

1)可視化の手法(『欲望』)

ジェーン やめてちょうだい。その写真を返して。そんなふうに写真を撮るなんて許せないわ。
トーマス そんなこと誰が言ったんだ?僕はただ自分の仕事をしているだけさ。闘牛士や政治家と同じように僕は写真家だ。

映画『欲望』(Blow-Up)1965年

アルゼンチンの作家フリオ・コルタザルの怪異幻想小説『悪魔の涎』*1に着想を得て制作された『欲望』*2は、原作のパリから映画化に際しロンドンに舞台が置き換えられた。主人公のトーマスは、都市とモードを撮る売れっ子写真家。彼は狩人のように当時の最新型ロールス・ロイスのオープン・カーに跨り獲物(写真の対象)を求め衝動的に都市ロンドンを駆け廻る。ここで提示される問題は彼の介在するオブジェクトと作品(写真)に対する意味づけだ。彼は、収容所のホームレスや荒廃した街の一角を背景に撮影された男の姿をカメラのフレームに切り取るという行為により都市の断面を「現実」として具現化しようとしている。彼は自分自身が知覚しうるもののみが現実であると信じ疑わない。

彼の思考はシャッターを切る以前に(シャッターを切る瞬間まで)肉眼で認識されたオブジェクト(対象)が直感によりもうすでに意味づけられ、叙述に結び付けられている。そしてその行為が現実の写し撮りだと確信している。同時に、貧困や荒廃した街と対峙するかのような対象的なモードや商業写真にも抵抗がない。多分、彼自身、感性が受け入れるものなら対象の価値にはこだわらないのだろう。骨董屋で買い込む飛行機のプロペラや、ライブハウスでオーディエンスが群がるロックバンドのギタリスト(ヤードバーズのジェフ・ベック)の叩き壊したギターのネックをいとも簡単に街中に捨て去るシークエンスは、芸術=モノの価値に疑問を投げかける一幕と言える。そう、トーマスは「もう、この街には飽き飽きした」と対象を消費して行くだけの虚しい行為に気づき始めてもいる。(ライブハウスから街中のシーンの動画

特に、『欲望』におけるアントニオーニの都市表現は秀逸でフィンランドの建築家ユハニ・パルラスマ*3も自著においてアントニオーニの建築物(もちろん、都市空間も含む)への並々ならぬ関心を指摘しているように、映画の冒頭にアリソン&ピーター・スミッソン*4設計の上方に伸びる直方体の現代建築(1964年完成のエコノミスト・ビル)に仮装学生運動家ラグ・ウィークたちの姿を重ね合わせ象徴的に描いている。近代から現代に変貌しつつあるロンドンの建築や新しい色彩やデザインの溢れるスウィンギン・ロンドン*5と呼ばれる当時の風俗をサイケデリックな色合いも加え抽象的に再現したスタジオ撮影のシーンはまさに圧巻だ。

ある日、トーマスは、ロンドン市内の静かな公園(マリオン・パーク)で幸福そうな一組の男女の姿を偶然、写真に収める。しかし、女性が執拗にそのフィルムの返却を請うので、単なる逢瀬以上の切迫した何かを感じ取りその事に深い関心を抱くようになる。彼が公園で手に入れた写真は、最初の意図では単に貧苦にあえぐ都市と人間の写真集の結末に対象的に配置されるものだった。ところが、彼はすでに撮り終えた作品の一点の不明瞭な影に注目し、そこから憑かれたようにその意味の探求がはじまる。この時点まで写真家トーマスが追い求め、消費していたのは、いわば哲学者ジャン・ボードリヤール*6の言う「人が最も上手に写真を撮ることができるのは、未開人、貧民、モノなど、それらにとっては他者がもともと存在しないか、もしくは存在しなくなったものたち」*7のようなもので、この気づきが、彼に、これまでは現実の欠落した空虚なイメージを追い求め続けるだけであった「撮影」行為の時点で、すでに意味づけが完結していたのが、更にその先に潜む意味を探るという“欲望”を抱かせることとなるのだ。そして友人の抽象画家ビルの台詞がその先を暗示する。「意味のない寄せ集め、始めはぼんやりと不明瞭なものが、やがて形を成す。一部が見えきて、そして全体が。まるで推理小説のように・・・。」

次回は、その不明瞭で意味のないコラージュ(寄せ集め)から、核心に迫るために取ったトーマスの“手法”と“写真 “そのものの意味について考察する。

(1)

2020.08.16

アントニオーニ晩年の長編『愛のめぐりあい』*1の主人公の名もない映画監督は「映像を通してリアリティの背後にあるものを探求してきた」と告白しているが、その“映像による見えないものの提示”は、同時に彼自身の(特に1959年制作『情事』以降の)作品における強い動機と不変のテーマと言える。

その見えないものについて、ほぼ同時代のフランスの哲学者(現象学)モーリス・メルロ=ポンティ*2は人間の知覚する対象について以下のように述べている。

見えないものとは、

一、今のところ見えないが、見えることのありうるもの。(物の隠れた面ないし今は見えていない面ーかくれているもの、「どこかべつのところ」のあるもの)。

二、見えるものと関わりはあるが、にもかかわらず物としては見られえないもの(その具象化されえぬ骨組)。

三、触角的ないし運動感覚的にしか存在しないもの。

いっぽう、見えるものについては、

見えるものとは客観的な現前(あるいはこの現前の観念=視覚的画像)であると信ずるようなまったくの哲学的誤謬(ごびゅう)の分析から出発すること。

モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』
滝浦静雄/木本元(共訳)

ポンティは客観的な表象(英:Representation 現前の観念=視覚的画像)とその裏側にあるものの対比により「ここ」や「どこかべつのところ」という場所の概念の喪失が触角的ないし運動感覚的に知覚され現前するものの誤謬、つまに、過ちや、誤解、偽りに気づく時に人間の意識の中にその“もの”が可視性をおびてくると述べているが、アントニオーニの視覚的画像においては可視しうる現実の背後に存在する実体の意味が探究しつづけられてきた。ちなみに『愛のめぐりあい』主人公の映画監督は「ただ映像に心惹かれるだけの人間にすぎない。今までずっとカメラを通して真実を発見してきた。周囲の世界を撮影しその表面を拡大して背後に潜むものを探求する。それを一生の仕事にしてきた。」と語る。アントニオーニの具体的なポンティの哲学に関する言及は残されていないが、彼も、ポンティの言う現前する事物や出来事の誤謬を捉え、見えないものを見えるものに転換、露出させようとしたのだろうか。

実際、私たち自身も、ものやことに対し一種絶対的な基準のように、”見える”、”見えない”という言葉をよく使う。それでは、アントニオーニが捉えようとした不可視の現実とはいったいどのようなものであり、どんな手法によりそれがフレームに転換されたのだろう。次回からは『欲望』(1966年)を始めとするいくつかの作品から具体的に検証して行きたい。