はりぼての幻想
富山県市議会の不正追及のプロセスを、地元テレビ局のキャスター兼記者と報道記者だった2人が監督としてまとめあげたドキュメンタリー映画。
一方的に市議会議員の汚職を追及、断罪するのではなく、カメラを取材者の斜め後方にし、映画の視聴者をこの両者を静観する視点に置く設定。いわゆるワイズマン・スタイル*1ではない。そもそも、市議会で起きた政務活動費の不正使用に端を発し、一部の行政職員までをも巻き込んだ一連のスキャンダルを、取材側も含めた一種の人間模様として捉えていく。カメラは、人物たちの日常までも捉え、当事者たちがどういう形で囚われていったのかに迫ろうとするのだが、作中でも指摘する通り、一見すると当事者の言論には、あたりまえ、自然な流れのように、不思議な説得力があり、それに人々が囚われ、これが自然なんだ、という謎めいた共有感に飲み込まれそうになる。
ここでは、公的な「不正」が、些細な「個人の欲望」の集合に始まり、それが、やがて「慣れ合い」の感覚で「忖度」や流れを変えないための「隠蔽」の空気が蔓延し日常化する吉本隆明的な”共同幻想*2”がそこに生まれる。しかし、やがてそれは市民との大きな「断層」や「乖離」となるが、もう可視化できない幻想へと進化しているのだ。
上映劇場では、「爆笑」「失笑」「苦笑」が聞こえた。そう、つまり、この幻想は、地方だからではなく、多かれ少なかれ日本のどこにでも起こりうる”ほりぼて”の現象なのだ。その核心は闇の奥深いところにあり、それがいったい何なのかを観るものに問いかける。追及者の2人が、現場を離れ、それを若い女性記者が受け継ぐところで終わる。
『はりぼて』(2020)
監督五百旗頭幸男、砂沢智史
制作チューリップテレビ
*1アメリカのドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマン(1930-)による、ナレーションなしの対象者(物)映像集積のみの構成。
*2正常な心の動きからは理解を絶するような、わたしたちを渦中に巻き込んでゆくものの大きな部分を占める人間の共同の幻想について書いたもの。1968年初版。